ハイマ・グラナティスの憂鬱
太陽に見放された一族が築き上げた常夜の国〝メディアノーチェ〟では、年に数回ほど『境界線』が曖昧になる時期が存在している。この境界線が崩れると、不可侵領域であったはずのソルサリエンテとメディアノーチェの双方を行き来できることが、偶然にもメディアノーチェ行きの境界線を踏み越えてきた一人の人間によって証明された。それが概ね二百年ほど前の出来事であった。
さて、メディアノーチェに住まう一族とは、端的に言ってしまうと異形の集団――『魔族』である。吸血鬼、人狼、死霊――そういった魔族達にとって、太陽の恩恵を受けて育った人間は『愛すべき隣人』などではない。では、何か? 答えは至極単純なものだ。それは『食材』である。故に両国が一つだったとされる時代の文献にしか残されていない人間の出現は、メディアノーチェに住まう魔族達の心に大きな歓喜を与えた。
そのような発見があってから、幾年か過ぎた頃――境界線が揺らぐ時期になると、太陽にある程度の耐性を持つ魔族が『人間狩り』をして取引を持ちかけてくるようになった。境界線の揺らぎは現在も不安定で、木菟引きが木菟に引かれる危険性も充分に在り得ることを思えば、なかなかの勇気である。
こうしてメディアノーチェの十月三十一日は、次第にソルサリエンテの祝祭に便乗する形で習慣化し、盛り上がるようになっていった。その頃にもなると美食家達による研究が進み、人間は一部を除いた殆どの個体が『珍味』として扱われていたのだが、物珍しさから大抵の人間は買い取られてゆく。ハイマの後悔も、そういった好奇心に起因するものであった。
その日のハイマは疲れ果てていた。同業者による大規模なトラブルに巻き込まれて、長らく家路に就くことすらも叶わなかった日々から、ようやく解放されたところだったのである。激務を終えると世間は祝祭で浮かれきっており、この時だけは常夜の国も太陽が顔を出したかのようにきらびやかな装飾の光で大地を照らしていた。
――ああ、なんと呑気な光景か。こんな日くらいは贅沢をしたい、そうだろう? たまの贅沢も無しに、こんな慈善事業などやっていられるものか!
ハイマは呆然としたまま、近所に住まう徘徊癖が直らないモスマンのように、ふらふらと屋台が密集する道へと誘われてゆく。その姿からは想像もできないことであるが、ハイマはメディアノーチェの中でも指折りの貴族として知られるグラナティス家で生まれた吸血鬼であった。
「ご機嫌麗しゅう存じます、ハイマ様。貴殿がこのようなところにおいでになられるとは珍しい。随分とお疲れのご様子ですが、いかがなさいましたか?」
「やあ、ごきげんよう。そちらも元気そうで何よりだ。私については、まあ、その……仕事で色々とあったのだ。詳細は伏せさせてくれ」
「ははは、野暮なことをお聞きしてしまいましたね。それでは、どうぞ祝祭を楽しんでいってください。それとも、うちの店で何か買っていかれますか?」
「そうだな、では――」
普段は高家の者らしく、メディアノーチェの統治に関わる業務に携わっているハイマであるが、それとは別の仕事として、メディアノーチェに生息する危険生物の研究も行っていた。先までの激務は、この危険生物の始末に追われていたためである。
半ば趣味で始めたような副業だったというのに、今では本業よりも信頼されているようにさえ思う。両親は『お前らしくて良いではないか』と笑って許してくれたものの、どうにも納得行かないというのが、ハイマの正直な感想であった。
「おい、その奥にある……あれはなんだ?」
「ああ、あれですか。人間ですよ。珍しい見た目だったので売れるかと思って仕入れてみたのですが……まあ、美味しそうには見えませんよね。明日には廃棄するつもりだったので、お買い上げになられるようでしたら、お安くいたしますよ」
「ふむ……」
店主とのやり取りの途中、ハイマが興味を示したのは、店の奥にある無骨な檻に収められた人間であった。それは酷く痩せこけていて、本当に生きているのかと疑ってしまうほどに生気を感じられない。薄暗い場所で蹲っているせいなのかもしれないが、確かに『美味しそうなもの』と思うには厳しい外見だ。元から状態は良くなかったのであろう。
どうにも気になる。珍しい見た目という言葉に唆られたのか、それとも疲れによる気の迷いなのか。理由は分からないが、ハイマはその人間に対して『食欲』以外の何かを感じていた。
「すまない、その人間をもう少し近くで見せてもらってもいいか?」
「ええ、構いませんよ。ただ、万が一のことがあったら大変ですから、近付きすぎないようにお願いいたします」
店主に奥までの道を開けてもらい、ゆっくりとハイマが檻の前へと立ち塞がった。猫のように細い瞳孔、真紅に染まった虹彩。吸血鬼の瞳と称するに相応しい、ハイマの鋭い眼光が目前の人間を捕らえる。まずは全体をじろりと一周。先よりも濃い色の影で覆われている檻の中でも、当該の人間は膝を抱えて項垂れたままで、まるで動く気配が感じられなかった。
「おい、人間。言葉が通じるのなら、私の顔を見ろ」
「……?」
その言葉に反応して、ようやく顔を上げた人間の面差しに、ハイマは思わず息を呑んだ。満月のように輝く琥珀色の双眸がハイマをじっと見つめていたからである。本来であれば、その肌も白磁の器のように白く透き通っているのであろう。暗闇に紛れてしまうほど汚れきった頭髪だって、色艶さえ取り戻せば宵闇を思わせる麗しい裏色へと変貌するに違いない。
星の肌、月の瞳、夜の髪――それは太陽に見放されたメディアノーチェの一族が喰らうに相応しい、あまりにも美しい容姿を持つ人間であった。
夜を喰らうというのは、どういった気分なのであろうか。闇に対する反逆心、一族を裏切るかのような背徳感。突如として現れたメディアノーチェの一等星に、ハイマが無意識のままに喉を鳴らす。
「店主よ、これはどこから仕入れた人間なんだ」
「あぁ、それについてなんですがね――」
店主から詳しい話を聞いて、ハイマは驚愕した。この人間は郊外の森でふらふらと無警戒に歩いているところを、偶然にも店主が見つけただけなのだという。危難に満ち溢れるメディアノーチェの地で、よくぞ無事でいられたものだ。そして、そんな逸材がどうして今の今まで売れ残っているのかと、ハイマは理解に苦しんだ。
ああ、なんと哀れで小さき闇夜であろうか……太陽の祝福から見放され、魔族すらも振り向かない。そんな異端が未だに存在していただなんて! 好奇心は猫をも殺すというが、それはそれでまた一興。ハイマの心がどうしたいのかは、檻に目を向けた時点でとうに決まっていたのだ。
「よろしい、こいつは私が買うことにしよう」
「そうですよねえ。それでは、今回はご縁が無かったということで――えっ?」
ハイマの思いも寄らぬ一言に、店主は分かりやすく狼狽えた。あの格式高いグラナティス家の者がこのような粗悪品に目を付けるなど、庶民の立場からすれば非現実的な出来事でしかなかったのである。
やはり、聞き間違いだったに違いない。店主がそう思い込み、確認のための返答をしようとした矢先――その貴族の右手には、既に分厚い札束が握り締められていた。この時、店主はハイマから発せられた言葉の全てが真実であったのだと思い知る他なかった。
それから、はっと我に返った店主は、いくら何でも多すぎる心付けに感謝しながらも丁重に断りを入れて、それを持ち主の懐へと返した。そして、久しく油を差していないのであろう錆びた檻の扉を開けると、ぎいと耳障りな音を立てながら、ゆっくりと『もう一つの境界線』に光を差し込んでゆく。
「ハイマ様、無礼を承知で申し上げますが、本当に……本当に良いのですか? 質の良い人間をお求めでしたら、他を当たるべきではないかと思うのですが――」
「そう気を張るな。貴族というのは気まぐれな生き物なのさ。さあ、取引を続けてくれ。それとも……やはり、先の心付けが欲しくなってしまったか?」
そう言うと、ハイマは無用心に開け放たれた檻に凭れ掛かって、悪戯っぽく口角を上げた。力無き庶民にとって、貴族――特にハイマのような力を持つ者――の不敵な笑みほど恐ろしいものはない。店主は、彼の奥底に眠る残忍な吸血鬼の姿を見たようで、心の底から震え上がった。
「めめ、め、滅相もございません! どうぞ、お気を付けてお帰りくださいませ! それでは、良い祝祭を!」
「ああ。そちらこそ、良い祝祭を」
店主と軽い挨拶を交わした後は、人間を家に持ち帰るという重労働が始まる。始めは予め装着されている枷に縄や鎖を繋げるという定番の方法にするつもりのハイマであったが、立ち上がることも難しそうな人間の様子を見て、ハイマはその考えを改めた。
小さき闇夜の両手両足を飾る、粗末な作りの木製の枷。活きの良い個体であれば容易に壊してしまうであろうそれを、ハイマは店主から渡された鍵で手際良く外してゆく。反撃も脱走もできないとなれば、枷など邪魔なものでしかない。こうして、人間はあっさりと自由を与えられた。
しかし、立ち上がれないということは、当然のように歩くことだってできないのである。少しばかり骨が折れるが、ハイマは人間を横抱きにして持ち帰ることにした。すると、人間はそれが気に入らなかったのか、枯らした喉で言葉にならない何かを訴えながら、弱々しく抵抗を始めた。
「か、ひゅ……! ぅ、う……! ぁ、ま……! っ、き……ぁ……!」
「何が言いたいのかさっぱり分からん。檻の中に戻りたくないなら、じっとしていろ」
「う、ぅ……ぁ、い……」
ハイマが冷ややかな態度で抵抗する人間に言葉を返すと、人間は特に激昂するようなこともなく、しゅんとした表情をして、あっさりと大人しくなった。そうだ、それでいい。人間は質量あってこその動物だ。今の状態で不必要に動かれると衰弱が進んで事切れてしまう可能性があるし、こちらも余計な疲れが溜まるだけで、何も良いことがない。
それにしても、我ながら大胆な買い物をしてしまった。言い訳のしようがないくらいの衝動買いである。それほどまでに心惹かれたこの人間をどう調理すべきか――とはいえ、珍味を相手にいきなり『生』は、先の買い物よりもよっぽど勇気が必要だ。だからといって、ただ齧るだけというのも味気無いように思う。
いや、それよりも、まずは餌付けと洗浄の準備を行わなければ……想像していた以上に、やるべきことが増えてしまっている。今はこの人間を生かすためにも、迅速に自宅へ向かうべきであろう。
ぶつぶつと独り言を呟くように頭の中で今後の予定を整理するハイマが、ようやく邸宅までの目印となる誘導光球を見つけて、それを頼りに歩みを進めてゆく。質の良い革靴が石畳の上でかつかつと小気味良い音を響かせていると、今日も近場をふらりふらりと徘徊していたモスマンが、好奇心のままに音の方向へと振り返った。
――ハァン? アイツ、珍しく人間なんかを買ったのか……物好きなんだねェ……ヒヒ、ウヒヒヒ……
未だ考えがまとまらぬハイマがやや苛立たしげに歩く最中、抱きかかえられたままの人間の様子を見て、モスマンは何かを察したようにくつくつと笑った。
――カンカンカン……
両手を塞がれていたハイマがどうにかドアベルの紐を掴んで無遠慮に鳴らすが、どれだけ待っても邸宅からハイマを迎える者は現れなかった。家主であるハイマが長期不在となる期間は、顔馴染の使用人を派遣して大部分の維持管理を任せているのだが、どうやら今回も契約した時間通りに上がってしまったらしい。
わざわざ『超過分の報酬は約束するので、今日は帰還するまで待機していてほしい』と事前に連絡していたはずなのに、まったく魔族らしい至誠な働きぶりである。
報酬については後で払いに行くとして、その使用人が不在となれば、まずは玄関扉の解錠をしなければならない。ハイマはその事実に小さく溜息を吐くと、怠そうに使い魔の蝙蝠を呼び寄せた。使用人はいつも複雑な幻術を用いて、それを鍵代わりにしている。生体認証の魔法陣も内蔵されていないような古い邸宅にすっかり慣れてしまっているハイマは、遠方から帰る度にこの幻術を解くのが面倒で、使用人に『合鍵を渡すのでは駄目なのか』と聞いては『合鍵は情報の共有になってしまう』だの『こうしているほうが有事の時に応用が利く』だのと言われて断られていた。
そうこうしている内に、両開きの大きな扉が唸り声を上げながら口を開いてゆく。助力してくれた使い魔達には、褒美としてアルミラージの血液飴を一つずつ渡して帰した。邸宅は足を踏み入れた家主を歓迎するかのように部屋中のランプに火を灯すが、ハイマはその幻想的な光景には目もくれずに居間へと直行してゆき、そこで鎮座するソファに向かって人間を――あくまで優しく――投げ置いた。
「まずは水。その後に洗浄。衣服の調達。餌。いや、薪が先か。それとも――おい、人間。そこから動いたら承知しないからな。檻にいた時みたいにじっとしていろ、いいな?」
「あぅ……」
人間の弱々しい返事にハイマが小さく頷くと、足早に居間から姿を消して、何故か小魚の束と水鳥のような形をした平たいティーポットを持って帰ってきた。ティーポットはソファの近くにあるテーブルに置かれたが、何よりも先だと言っていたはずの薪は一つとて見当たらず、暖炉には消炭色をした一匹のトカゲが丸まっているだけであった。
家主がひょいと差し出した小魚を嬉しそうに頬張る姿からは想像もできないことであるが、このトカゲは決してただのトカゲなどではない。それは、彼の全身から噴き出す灼熱の炎が確かな証拠となるであろう。
これはハイマと有期労働契約をしているサラマンダーである。サラマンダーは寒さに弱いため、晩秋辺りから暖炉やストーブの機能維持を条件に住み込みで越冬することが多い。ハイマが雇っているサラマンダーも、暖炉仕事のついでに快適な越冬を目論む一匹であった。
「さて、次はお前だ」
少しだけ生臭くなった手をハンカチで拭き終えると、ようやく本題だとばかりにハイマが声を上げる。急速に暖かくなった部屋でうつらうつらとしていた人間がその声で目を覚ますと、そこには人間と目線を合わせるために片膝を立ててしゃがむハイマがいた。
「まずは喉を使えるようにしろ。私も貴様に出した金を無駄にはしたくない」
そう言ってティーポットの注ぎ口を人間の口元に差し出すハイマであったが、人間にとってはよく分からない行為だったらしく、きょとんとした表情のまま固まっていた。
「はぁ……そこから説明しなければいけないのか? いいか、この容器に入っているものは『水』だ。少し温めてあるだけの、ただの水。私がこれを使って口に流し込んでやるから、お前は注ぎ口を咥えて水を飲め。いいな?」
ゆっくりと、指を差しながら、辛抱強く。そのお陰かどうかはさておき、人間はようやくハイマの言う通りに注ぎ口を咥えてくれた。そういえば、アンズーの雛を治療していた時もこんな感じだったな――と過去にあった苦労を思い返しながら、ハイマは喉に詰まらせないよう緩慢な動作で人間に水を与えてゆく。
このティーポットは、かつてハイマが中型生物の経口投薬器として使用していた『吸い飲み』である。より効率的な投薬方法が開発された今では、すっかり部屋の飾りと化していたものだ。まさか、こんな使い方をする日が来るとは、当の吸い飲みも予想していなかったことであろう。
それから寸刻ほど――水を飲み切ったのか、先までこくこくと必死に喉を鳴らしていた人間の動きが止まった。しかし、世話焼きのハイマが甲斐甲斐しく手を引く前に、人間は自らの意思で吸い飲みから口を外して、一切の迷いなくハイマの瞳に視線を移した。
その目に湛える満月は徐々に生気を取り戻しつつあり、どこか艶やかな雰囲気を纏い始めている。たったそれだけの変化で、強烈な吸血衝動に駆られたことに、ハイマは酷い羞恥を覚えた。
違う、まだだ。まだ、今じゃない――自らの本能を呪うように震える両手をぐっと握り締めると、ケタケタと笑い声を上げる吸い飲みの蓋もようやく静かになって、部屋の中はサラマンダーが発する弾ける炎の音だけが響いていた。
「お前の故郷であるソルサリエンテの言語は、こちらの言語と共通している部分が多いと聞く。実際、これまでのお前は私の言葉を正しく理解しているように思えた。つまり――意味は分かるな?」
「……はい」
蚊の鳴くような声でも分かる透き通った音色がハイマの鼓膜を刺激する。それはメスの個体を彷彿とさせる高音であったが、喉元には微かに喉頭隆起らしきものが見えており、この人間が既に第二次性徴を迎えた身体であることを示していた。
「では――そうだな、まずは名前を教えてくれないか。名前があるなら、私はお前をどう呼べばいい?」
「……先生は、僕のことを〝ルアール・ガルゥ〟と呼んでいました」
「センセイ……?」
予想もしなかった人間の言葉に、ハイマが眉を顰める。
「先生は僕の両親を救ってくださった命の恩人です。お母様やお父様は、いつも『先生の言葉こそが真実なのだから、あなたも絶対に信じなさい』と言っていました。だから、先生にそう呼ばれた日から、僕は〝ルアール・ガルゥ〟になりました。僕があなたにとっての〝ルアール・ガルゥ〟でないのなら、僕は名前を持っていないことになります。なので、どう呼んでもらうべきかも僕には分かりません」
「お、おい……なんだ、それは……」
声が震えている。目前の人間が放つ耳慣れない単語の羅列は、孤独な吸血鬼を動揺させるには充分すぎるものであった。ハイマは魔族ですら辟易してしまうような危険生物には精通しているが、ひたすらに脆弱な人間という種族については人並み程度の知識しか持ち合わせていない。
そうだ、人間はメディアノーチェの魔族と意思疎通ができるほどの知能を持つ知的生命体だ。全体的に丸みを帯びた外見的特徴や、魔族と比べれば圧倒的に非力であること――何より、ただの『食材』でしかないという思い込みから、これが『ろくな調査もされていない未知の国からやってきた異生物』であることを、すっかり失念させていた。
とどのつまり、吸血鬼の好物である血液でさえ年に数回しか摂取しないような少食のハイマにとって、人間など『ソルサリエンテにしかいない不思議な生き物』以上のものには成り得なかったのである。
当然、それは自身を〝ルアール・ガルゥ〟と称した人間にも当てはまるもので、突如として混迷の渦中に放り込まれたハイマは激しく取り乱していた。
「僕はいつも祈っていました。先生が祈れと言ったからです。祈りが通じれば、僕は夜の国に招待されて――太陽の瞳を持つ神様の供物となり、この命を全うしなければならないからです」
「やめろ! さっきから貴様は何を話している? クソ、気味が悪い!」
冷や汗を流して怯えるハイマに、人間が痩せ細った両腕を首に回して、目を細めて囁いた。
「ああ、僕の神様……」
――どうぞ我を糧とし、その魂をお救いください。
「なっ――……」
がしゃんと陶器が割れる音がした。ハイマが吸い飲みを落としたのだ。薄汚れた星の肌が首筋を撫で、砂埃を被った夜の髪が頬を掠める。獲物を捕らえて離さぬ月が僅かに残る理性をぐつぐつと煮え溶かし、ついにはハイマの吸血鬼たる本性を引き摺り出した。
「後悔するなよ、この畜生め――!」
ハイマの真紅に染まった瞳がかっと開くと、自由になった両手で人間を乱暴に組み敷いた。拘束された人間の両腕をハイマがぐうっと握り締めると、その力の強さに人間が小さく呻き声を上げる。びくびくと身体を震わせる人間はその痛みで薄汚れた肌を紅潮させるが、とうに正気を失っているハイマは捕らえた獲物が怯えて縮こまっているのだと思い込んでいて、その異常な変化に気付いていない。
そこには確かに人間の思い描く太陽がいた。燃えるように光り輝く真紅の双眸、端整ながらも力強い肉体、振り乱した金色の髪――その荒々しい姿は、ソルサリエンテで伝えられる神話の一節そのものだったのであろう。しかし、実際の神は俗気にまみれた興奮の汗を流して邪悪な笑みを浮かべており、口元からは獣が如き二つの鋭い牙が覗いている。
だが、人間にとって、そんなものは些細な違いでしかなかった。忘我の宇宙に蕩けた星は、さも当然であるかのように獣へ首元を差し出すと、獣は応えるように牙で表皮を貫いた。
上からざあざあと大量の水が流れ落ちてゆく。その正体は閑暇の月夜が寄越した通り雨などではなく、ハイマの邸宅にある浴室のシャワーヘッドから噴出する温水であった。一人暮らしにしては些か大きすぎるのではないかと思わされる浴槽にはたっぷりと湯が張られており、既に丸洗いされた様子の人間が心地好さそうに浸かっている。
その人間は首元にある二つの細い刺し傷を始め、上腕から手首にかけて点々と青痣ができていたりと、見るからに痛々しい姿であったが、人間は特にそれを気にする様子もなく、むしろ誇らしげな顔付きで傷口に指を這わせていた。
一方で、無表情のままシャワーを浴びるハイマの心情は最悪そのものであった。あの後、ハイマは人間の誘惑にまんまと負けて、それはもうあっさりと吸血行動に走ってしまっていた。
基本的に吸血鬼とは大食らいの傾向があり、大抵の獲物は一度の吸血行動で絶命してしまうと言われている。故に吸血鬼に襲われた獲物が生き延びる時とは、よほど運が良かったか、わざとかのどちらかなのである。
しかし、ハイマは人間の血を最後まで吸い上げることができなかった。それも、全体の半分どころか、一口か二口目辺りで投げ出すような始末である。その理由がハイマの吸血鬼にしては珍しい食の細い性質のせいであればまだ良かったが、現実とは残酷なもので、ただただ単純に人間の血が不味すぎて耐えられなかっただけというものであった。
得も言われぬ奇妙な酸味と甘味、腐りかけの生魚のような強烈な臭み、辛味と苦味が混ざった不快な後味――加えて、砂を噛んでいるかのようなざらざらとした食感――何一つ良いところが思い付かぬ、史上最悪の食事。いつだかに使用人の悪戯で飲まされた廃棄寸前のムシュマッヘの血液のほうが幾分かマシであったと思い馳せる。
対象の人間が栄養失調であったことも不味かった原因の一つなのであろうが、それにしたって不味すぎやしないか? あそこまで行くと、もはや珍味ではなく下手物であろうに!
「――なるほど、だから『美味しそうには見えない』のか。今回ばかりは魔族としての直感を信じるべきだったな……」
一日通して良いことなしであった現実にがっくりと項垂れるハイマの姿すらも人間の目には別物として映っているようで、うっとりとした表情で『神様』だのなんだのとほざいている。この社会的常識の欠落ぶりは、人間という種族全体の問題なのであろうか?
文化的視点の記載が望める調査資料については後で探しておくとして、今はこの魔族――というよりも、ハイマ・グラナティス個人――を『神』と称する珍妙な癖だけは矯正しておきたい。これを言われると、どうにも居心地が悪くて堪らないのだ。
「おい、人間。その『神様』とかいう呼び方はやめろ、気味が悪い」
「――? では、どうお呼びすればいいのですか? 僕は主の真名を知りません」
そういえばそうだった、とハイマが自省する。外でやり取りしていた時の言葉など、檻の中で蹲っていたような人間に聞こえようはずもない。ハイマ自身も、わざわざ名前を伝えるようなことはしていなかった。
「すまない、それは私が悪かった。ちゃんと名は伝える。だから、その呼び方だけはやめてくれ」
ようやく泡を流し終えたハイマがシャワーの蛇口をきゅっと閉めると、軽く水を切って髪を結い上げ、人間が浸かっている広い浴槽にざぶんと身体を半分ほど沈ませる。すると、人間はそれまでの態度とは打って変わって、恥ずかしそうにもじもじと視線を逸らしてくるようになってしまった。
さっきから、こいつは何がしたいんだ? 人間の理解しがたい行動の数々に呆れながらも、片手でぐいっと素早く人間の顎を掴み、強制的に目を合わせられるようにしたハイマが、まるで親から子へ言い聞かせるかのように話し始めた。
「私の名はハイマ。ハイマ・グラナティスだ。残念ながら『神』でも何でもない、どこにでもいる『吸血鬼』だ」
「ハイ、マ? 吸、血鬼……?」
「そう、ハイマ。吸血鬼とは、主に血液から栄養素を摂取する人型種族のことを指す。まあ、現代における吸血など娯楽みたいなものだが――」
「ハイ、マ……さま。ハイマ、さま。ハイマ、様。ハイマ様……?」
「――おい、どうした? 大丈夫か? まさか長湯のせいか? おい。おい!」
ハイマの話も聞かずに、ぶつぶつと譫言を呟きながら、ゆっくりと気を失ってゆく人間をハイマが慌てて引き上げる。あまりに突然のことだったので『ついに死んだか』と覚悟をしていたが、これ自体は単なる湯疲れだったようで大事には至らなかった。
しかし、それを知ってしまえば、残るものなど『今日は食事どころか入浴すらまともにできなかった』という結果だけで、ハイマはいよいよもって疲労困憊となっていた。
「ハ……ハイマ、様……お腹が空いているようでしたら、僕が代わりに――」
「何を言っている? お前がこうしてのうのうと生き残っているのは、その血が汚泥並に不味かったからだぞ。そんなに糧でありたいなら、もう少し自身の味を良くする努力をしてくれないか」
ハイマの辛辣な感想にぐうの音も出ない人間が、自身に掛けられたブランケットに目を落とす。露骨に落ち込む人間に気まずくなったハイマは、今日で何度目かの溜息を吐いた後に、腰を低くしてソファに横たわる人間の頭を撫でた。
「仕方ない、お前については暫く召使いとして迎えることとする。私達は互いに知らないことが多すぎる。食う食わないの決定は、それらの理解を深めてからでも遅くはないだろう」
「え……?」
ハイマは獲物の挑発で調子を狂わされる程度には若い吸血鬼であったが、それでも大変に思慮深く、また、優しい心を持つ青年であった。この人間を買うに至った理由も、その希少性の高い容姿や『食欲』以外の欲求――もしくは感情が芽生えていたことによるものなので、元より仕事終わりの酒の肴にするつもりではなかったのである。最終的に食べてしまう予定だった以上は、同じことなのかもしれないが……
それはさておき、太陽の子とされる人間の『魔族を神と崇めて身を捧げる』という奇妙な習性――これをただの食材と決め付けて片付けてしまうのは、あまりにも勿体無い。どうして、そのような不可思議な信仰が存在していて、このような子供が贄となっていたのか。享楽主義の傾向がある魔族にとっては退屈でしかないソルサリエンテとメディアノーチェの異様な繋がりに、ハイマは強い関心を示していた。
しかし、これ以上の失態は許されない。これもまた研究の一環であると嘯くならば、調査対象の扱いには細心の注意を払うべきであろう。ならば、まずは健康と呼べるまで肥えさせなければ始まらない。
「当面は私が最低限度の生活を保障してやる。こちらの飯が人間共の口に合うか知らないが、餓死を望まぬ限りは慣れてもらうしかない。水については、そこのジャグから好きなだけ飲むといい。とにかく召使いとして働くのは、お前がもう少し丈夫になってからだ。分かったな」
「はい……ありがとうございます、ハイマ様……」
素直に感謝の意を述べる人間を見て、ハイマの冷徹な真紅の双眸がふっと和らぎ、まるで実の子をあやすかのような手付きでブランケットに包まる人間の背中を優しくさする。ようやく感じ取れた他者の優しさに、儚くも美しい小さな人間が一筋の涙をつうと流すも、ハイマはとうとうそれに気付くことはなかった。
「人間――いや、ルアール・ガルゥ。残念だが、私はお前のことを〝ルアール・ガルゥ〟だとは思っていない。しかし、呼び名が無いままというのも不便だろう。だから、私は今日からお前のことを『ルゥ』と呼ぶ。これで納得してくれるか」
そして、両者共にすっかり忘れていた名前のことを、ハイマが人間――改め、ルゥに伝える。そのあまりにも突然で突飛な一言に驚愕したルゥは、まるで飛び上がるような勢いでブランケットごと身体を起こして、ハイマのいる方向へと振り向いた。
「ルゥ……? それが、僕の名前……?」
「う、うーん? まあ、そうなるのか……? ただ、縮めただけだが……」
ルゥの質問にハイマが釈然としないながらも肯定すると、ルゥは目を輝かせて、見るからに嬉しそうな様子でブランケットの端を握り締める。
「えへへ……ルゥ。僕の名前……えへへ……」
そのまま、ぶつぶつと自身の名前を連呼し始めるルゥに『そんなに〝ルゥ〟という名前にしたかったのか?』と、的外れな解釈をするハイマであったが、とりあえずは共に生活してゆけそうであることにほっと胸を撫で下ろしていた。これで全くの意思疎通が叶わぬ気性であったら、更に面倒なことになっていたに違いない。
とはいえ、買い物としては大外れの枠であるわけで、その選択自体には後悔ばかりのハイマであった。しかし、永久の時間を生きる吸血鬼としては、普段の味気無い日常は勿論、危険生物を前にした時の感覚とも異なる刺激が増えるのだから、むしろ丁度良かったのかもしれない。
そう考えでもしないと、自身の軽率さに恥ずかしくて心が折れてしまいそうだったというのも、正直な話ではあるが――いや、それについては強めの酒でも呷って忘れてしまおう。それがいい。そうと決まれば、さっさと飯を作って晩酌と洒落込もうではないか。
「なあ、ルゥ――ソルサリエンテにはどんな食材があったんだ? 今、手元にあるのはアックスビークの肉やマイコニドの塩漬けくらいなんだが……これはお前にも食べられるものなのか? 毒――ではないよな?」
「はえ? あ、あっくす? まいこ……? え、え……えと……」
こうして始まった吸血鬼と人間による異種族異文化交流物語は、まだ幕を開けたばかり。貴重な珍味である『人間』を手に入れるためだけに生まれた、魔族による魔族のための奇妙な祝祭――サヴァンの夜は、もう少しだけ続いてゆく。
夜を喰らうもの [第一話]
常夜に生きる者の手記 [第一項]
本来、メディアノーチェの吸血鬼にとって『人間の血液』とは『A5ランクの霜降り和牛』や『滅多に出回らない高級魚』のようなものであった。
しかし、当の人間はソルサリエンテでしか繁殖しておらず、成長速度のわりに繊細で味も不安定であることから、結局は珍味止まりのまま現在に至っている。
その中でもハイマが購入した〝ルゥ〟は特段に不味い血液の持ち主であったらしい。それが本来の目的ではなかったにしても、まったく運の悪い男である。